父と母

Wアキレス

飲み屋のカウンターにて
(発表:04/09/27)

今日は一人で行きつけの飲み屋に入って、カウンターで飲んでいた。 雨の降る月曜日などという日は飲み屋に寄ろうなどという人も少なく、店の中はがらんとしていた。 こんな時は、たいがい店の中を見渡してみて、どんな客が入っているのかなどとチェックしてみる。 そんな私の視界に子供連れの家族らしい客が入った。 こんなところにまだ小学生に見える子供を連れてくるなんて・・・と思った瞬間、子供の頃の記憶が急によみがえってきた。

そういえば、父親に近所の居酒屋に「寄せ鍋を食べに行こう」と連れていってもらったことがあったなぁ・・・ 子供の頃の自分では何の違和感もないそんな父の提案だったのだが、その様子を見ていた知っている人にどこそこの店で寄せ鍋食べてたでしょうと言われ、それって目立つ行為だったのかと子供心に思ったものだった。

私の母は私が小学校の時に病死していて、それ以降父の手だけで育てられていた。 父はどちらかといえば、母に苦労をかけていた夫だった。 身を崩すほどでないにしろ、賭事に熱中していたものだった。 そのため、元々働き者であった母は本当に働きずくめで、私は母の寝ている姿をほとんど見たことはなかった。 そんな父が、必死に家計を支えていた妻を失い、私と妹の子供二人を残された形になってしまったのだ。

元々貧乏だった暮らしがますます貧乏になっていった。 家事も当番制になった。毎朝交代で朝食の準備などもした。 その当時はコンビニなどはない時代。 前の晩に米をとぎ、一晩水につけて置いて翌朝炊飯器の火を入れ、みそ汁を作ると言うことをしたものだ。

寄せ鍋を食べに行こうという話は、そんな生活が何年か過ぎた頃の話だったのだ。 父は酒は強い方ではなく、外の店に酒を飲みに行くような人ではなかった。 多分、その店の寄せ鍋がうまいというのは寄り合いの宴会で知ったのだろう。 私たち兄妹も外で食事ができるなんてほとんどなかったから、そういう話はとても嬉しかった。 そして、何の抵抗もなく、私と妹はジュースで、父はビールで寄せ鍋を囲んだのだった。

今になってみると、それは父の精一杯の私たちに対する愛情表現ではなかったのではないかと、ふと思ったのだ。 元々ほとんど家庭をかえりみない人が家庭を支えていた自分の大切な妻を失い、本当はものすごくつらかったのだと思う。 そして、もっと大切にしてあげればと思っていたに違いない。 ただ、それ以上に母親を失った私たちが不憫だったのだと思う。 そんな気持ちが、「寄せ鍋を食べに行こう」ということになったのではないか・・・ 

と、子供の頃の記憶が戻ると同時に思い浮かんだ私だった。 その不器用な愛情表現を思うと、なんだか泣けてきてしまって、必死に涙をこらえていた私だった。


頼まれごとは全うできたのだろうか
(発表:06/01/01)

母が危篤になって数日後、もう口も聞けないほど体は弱っていたがはっきりと目を開いて周りを見渡したことがあった。 そして、私とも目が合った。母はそのときじっと私を見た。 私はそのとき心で母の声を聞いていた、「お父ちゃんを頼んだよ」と。

父はまだ子供であった私からみるといい夫とは思えなかった。 朝起きるのはゆっくりで、夜になれば賭事をしに出かけてばかりだった。 また、私たち兄妹を叱るときは今の世の中からすると信じられないような体罰をしたものだった。 子供心にあんな風にはなりたくないと思ったものだった。 それなのに、死を間近にした母から聞こえた声は「お父ちゃんを頼んだよ」だったのだ。

何であんなにわがままな人のことを・・・と思い続けたのだが、私は大人になって気づいた、わがままな人は人に迷惑をかけることもあるが魅力的なのだ、ということを。 私が子供だったから両親の男と女としてのお互いの気持ちなど知る由もなかったのだが、今では父は母にとって魅力のある男性だったのだろうと思うようになった。

その父は10年以上前に脳梗塞を起こし、それ以来左半身がきかなくなって特別養護老人ホームのお世話になっていた。 さらにここ数年は麻痺が進み寝たきり状態になり、食べると言ってもチューブで流動食を流し込むような状態だった。 私にできることと言ったら月に1度ほど老人ホームに顔を出すくらいだった。 そして去年、秋も深まり都心でも木々が色づき始めた頃、旅立った。

去年のうちに納骨も終わり、年が変わった今、母からの頼まれごとは全うできていたのだろうかと自分の行いを顧みている。

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